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少数民族の”タブー”に挑み、女性の生きづらさ変えた日本人

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今回はニュースを見て心を動かされた日本人について紹介します。

参考元:https://news.yahoo.co.jp/articles/f43b628dae17f46e4cb757d21889c2cc115ba07b

生理、出産は薄暗い小屋で?少数民族のタブーに挑み、女性の生きづらさ変えた日本人、

佐賀県出身の写真家、和田晶子さん(69)。

パキスタン北西部の山奥に、現地でのご主人と一緒に暮らしている方です。

和田さんが暮らしているのカラーシャの谷にはイスラム教とは全く違う土着の神々を信じ、祭りが好きな少数民族がいます。

3千人ほどいるカラーシャの人たちは、険しく切り立った谷底のわずかな平地に石積みの家を建てて暮らしていました。赤や黄色の色鮮やかなビーズの頭飾り、牛追いの少女が奏でる縦笛の音色、文字を持たないカラーシャ語……。とても興味深い土地だなぁと私も思います。

それまで訪ねた土地では、よそ者や客人として扱われることもあっ多そうですが、カラーシャの谷の村人たちは和田さんを特別扱いせず、温かく迎え入れくれ、そこにはゆったりとした時間が流れている。

この”ゆったりとした時間”っていうの、私もわかる気がします。アラスカに住んで初めて感じた感情でした。今でもあのゆったりとした時間が恋しいです。

そんなカラーシャで、片言の英語が話せる年下の男性ヌルシャヒディンさんと出会い、彼の家に居候するようになり生活が始まったようです。ヌルシャヒディンさんは和田さんのことを「バーバ(姉さん)」と呼んで慕ったそうで、 「直感だけど、バーバはこれからずっと谷で暮らすんだろうなと思ったんだ。神様が贈ってくれた『ご縁』に違いない」。和田さんとヌルシャヒディンさんは、ヤギの肝を分け合って食べる儀式によって姉弟のちぎりを結びました。

写真はGoogleより参照。カラーシャ部族

暮らしているうちに、カラーシャの知られざる世界観も見えてきたようです。

例えば、カラーシャの人たちは「浄(オンジェシタ)」と「不浄(プラガタ)」で物事を捉える考え方を持っていました。

男性や水、ワイン、ヤギ、蜂蜜などは「浄」にあたる一方、女性や鶏、出産、生理などは「不浄」に分類されていた。

そのため女性は、祭礼で捧げられたヤギや蜂蜜を食べてはいけないというしきたりや、聖域と呼ばれる場所には近づいてはいけない、水を飲むときはコップに口を付けてはいけない、村の中や上流部で洗顔、水浴び、髪結いをしてはいけない、生理や出産のときは下流部の小屋「バシャリ」にこもらなければならない、といった制約が細かく決められていました。

男性が女性を表だってさげすむようなことはなかったそうですが、こういった”しきたり”には違和感を感じた和田さん。

女性が体の汚れを落とすには、人目の付かない下流部までいって水浴びをしなければなりませんでした。しかも雪が積もる寒い冬に水浴びすることは難しいので、体を洗えないまま過ごす女性もいました。

また、女性たちは生理や出産のたびに家を出て、薄暗い小屋バシャリで過ごすことを義務づけられていました。 女性を取り巻く不衛生な環境だけでも改善できないかと考えた和田さんは、1989年に一時帰国し、東京や佐賀でカラーシャの文化を伝える写真展を開いてカンパ計約10万円を集め、そのカンパを持ってカラーシャの谷に戻り、女性が人目を気にせず水浴びできる小屋を建てたいと谷のリーダーに直談判。女性5~6人が水浴びできる小屋を完成させました。

まずここまでできる行動力、勇気に私はとても心を打たれました。

異国の、山奥で、こんなに他人のことを思って行動できる人ってどんな考えをして、行動しているんだろうって、すごく気になります。日本だけでなく、こうして世界にはこんなに素敵な日本人がいるんですね。私も海外に住む日本人として、もっとしっかりしなきゃなって本当に思います。このような素晴らしい日本人の功績が世界に示されることで世界の、日本に対する見方もさらによくなっていくのだと思います。

その小屋の建設作業を手伝ってくれた、村人ジャマット・カーンさんとのちにご結婚されました。和田さんとカーンさんは大勢の村人が見届けるなか、1993年夏、黒いヒツジを神に捧げる儀式を開き、結婚されました。駐パキスタンの日本大使も谷を訪ね、儀式を見守りました。

その縁も手伝い、1994年には日本大使館の協力で谷に小さな水力発電の機器が設置され、谷の家々に明かりがともるようになりました。 出産・生理用の小屋バシャリにも電気が通り、それまでは薄暗いランプのもとで出産し、ススだらけになっていた赤ん坊はいなくなり、安心して出産することができるようになりました。 当初、村では「聖なる水で作った電気を不浄な小屋に入れることはできない」という反対意見もあったが、和田さんは「小屋を不浄だと言うあなたもこの小屋で生まれたのよ」と説得を試みました。

異国の村人を説得までする力はすごいなぁとただただ感心するばかりです。

和田さんの功績はこれだけではありません。

1990年代後半からはカラーシャの子供たちの教育支援に乗り出しました。カラーシャ語で育った子供たちにとって学校に通うハードルは高く、大半が未就学の状態でした。谷では学校の教科書が手に入らないという問題もあリマした。 そこで和田さんは在パキスタンの日本人会婦人部の支援金をもとに教科書を買い、カラーシャの子供たちに配りました。1998年に75人だった通学者は2004年までに倍増。成績が伸びた場合には奨励賞としてノートや鉛筆を贈ることで、子供たちを励ましました。

和田さんは昨年12月、「日本とパキスタンとの相互理解」を促進した数々の功績などが認められ、日本外務省から外務大臣表彰を受けられました。

今でも素晴らしい活動を続けている和田さん。

カラーシャという村をとても大事に思っていらっしゃるのがとても伝わってきました。

海外に住む私にとってとても考えさせられるニュースでした。

もっと周りに優しい人間になりたい、人の役に立つことができる人間になりたいと思いました。アメリカに居たってできないことじゃないよね!!言語とか文化の壁ってやっぱりあるけど、諦めずにこの土地で頑張っていきたい!

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